ドイツのど真ん中!

ドイツのど真ん中、ゲッティンゲンやアイヒスフェルトを紹介しています。

ソ連・ロシアから帰還したドイツ人

過去2回のブログでゲッティンゲンとロシアの飛び地カリーニングラードの関係について書きました。

私がかつて住んでいた学生寮のコレギウム・アルベルティーヌムにはカリーニングラードからの留学生だけではなく、ロシアに縁のある学生たちも暮らしていました。彼らの境遇が少々複雑で、日本の高等学校に当たるギムナジウムでの勉強をやり直させられていたのです。

その境遇とは、ソ連で暮らすヴォルガドイツ人黒海ドイツ人と呼ばれるドイツ系住民の子孫で、ベルリンの壁崩壊の頃からソビエト連邦が崩壊する時期に彼らの親と共にドイツへ帰還・移住してきたのです。

そのような冷戦終結の前後に東ヨーロッパから帰還したドイツ人として、コレギウム・アルベルティーヌムの管理人を長く務めたヘルマンじいさんのことをかつてブログに書きました。

さて、ソ連崩壊後のロシアで高校を卒業した彼らはドイツに来てみると、ロシアで履修した単位が認められず、高校の過程をもう一度やらされていつも機嫌が良くありませんでした。すでに勉強したことが認めれずにもう一度同じことをやらされ、人生の数年間を割かれるのですから無理もありません。

またアイヒスフェルトのドゥーダーシュタットで知り合った、あるロシアから帰還したドイツ人はロシアではドイツ人、ドイツではロシア人だとの差別やいじめを経験し、ドイツ社会に馴染めず、麻薬や覚醒剤の売人のようなことをしていました。私は彼に怪しいものを運ぶ手伝いをしてほしいと頼まれたことがあります(もちろん断りました)。

犯罪に手を染める者とは対照的に賢い子や要領のいい子は黙々とドイツでの復習をこなし、大学などに進学していきました。あれから20年も経ちましたので、彼らもアラフォーを迎えているはず。ちゃんとドイツの社会に居場所を見つけて生きていることを願わずにはいられません。

ゲッティンゲンに住む私の友人のA君が結婚した奥様もロシアから帰還したドイツ人です。彼女の話すドイツ語はネイティブのドイツ語とは少し違った響きがします。常に文法的な間違いのないようにと心がけて丁寧にドイツ語を話す様に感心させられます。彼女は医療系に仕事に就き、遠回りでしたが、今年ようやく資格を取れるのだとか。

そして最も成功しているソ連から帰還したドイツ人が国民的な歌手のヘレーネ・フィッシャーなのでしょうね。


www.youtube.com

彼女はシベリアのクラスノヤルスクで生まれ、3歳の時に両親と姉とともにドイツへ移住してきました。3歳でドイツに来たのであれば、私の知っているロシアから帰還したドイツ人たちのような苦労はあまりしなかったのかもしれませんし、ドイツ語も母国語といえるでしょうね。

ゲッティンゲンとカリーニングラード

だいぶ間が空いてしまいましたが、前回のブログで私が住んでいた学生寮にロシアのカリーニングラードからやって来た留学生のことを書きました。それからカリーニングラードや私の住んでいた学生寮について少し調べていました。

3年目に突入したロシアのウクライナ侵攻では、バルト海に面した、ロシア本国からポツンと切り離された飛び地のカリーニングラード州という地域があることを知った人もいることでしょう。そのカリーニングラード州ですが、かつては東プロイセン(Ostpreußen: オストプロイセン)と呼ばれるドイツの一地域でした。州都カリーニングラードもドイツ語のケーニヒスベルク(Königsberg)という名前で呼ばれていました。

ケーニヒスベルクには1544年に創設されたケーニヒスベルク大学(ドイツ語で Arbertus-Üniversität Königsberg ケーニヒスベルク・アルベルトゥス大学)があり、哲学者のカントを輩出しました。

第2次世界大戦ではケーニヒスベルクも戦場となり、1945年にはとうとうナチスドイツが戦争に敗れ、ケーニヒスベルクソ連の領土(東プロイセンポーランドソ連に分割)になり、そこに住むドイツ人はドイツ本国へと追放されたのです。

歴史あるケーニヒスベルク大学も閉校となり、ソ連カリーニングラード国立大学になりました。ケーニヒスベルク大学のドイツ人の教授を受け入れたのがゲッティンゲン大学でした。ケーニヒスべルクを後にした教授たちは、ひょっとしたらゲッティンゲン近くのフリートラント(Friedland)の駅に辿り着いたのかもしれませんね。

コレギウム・アルベルティーヌム、右に張り出しているのはコンサートも開けるホール

そしてケーニヒスベルクを追われた教授や学者たちのたっての願いにより、ケーニヒスベルク大学を記念して建てられたのが、私の住んでいたコレギウム・アルベルティーヌム(Collegium Albertinum)という学生寮だったのです。そのような経緯からカリーニングラードからの留学生を多く受け入れていたのでしょう。残念ながら学生寮は財政難や運営する団体の代表メンバーが高齢化し、3年前に閉鎖されてしまいました。

因みに、閉校されたケーニヒスベルク大学にできたソ連カリーニングラード国立大学は2005年にイマヌエル・カント記念ロシア記念ロシア国立大学(2011年にはイマヌエル・カント記念連邦大学)と名称が変更されました。その発表を行ったのが、プーチン大統領とドイツのゲアハルト・シュレーダー元首相でした。そのシュレーダーゲッティンゲン大学の卒業生です。そして彼がロシアとズブズブの関係であることは誰もが知る事実。このような因縁がゲッティンゲンとカリーニングラードにあるのか……と複雑な思いになります。

いずれにしろ、ゲッティンゲンとカリーニングラードのことをもう少し深掘りしてみたいと思っています。

ムリンツィとブリヌィ

緑色が鮮やかなウクライナのクレープ料理

先日ウクライナから避難してきた人たちが働くウクライナカフェで食事をしました。この日は上の画像の「ムリンツィ」というクレープの料理を食べました。緑色はほうれん草が練り込んであり、こんなにも鮮やかな色をしているのです。クリームチーズやマッシュルームを焼き上がった生地で巻いてあります。その生地はもちもちの食感で、とても美味しい、大満足のランチになりました。

しかしムリンツィを食べながら、「あれ、これ何か食べたことあるなぁ……」と私は思いはじめたのです。もちもちとした生地の食感はロシアの「ブリヌィ」だと思い出しました。

かつて私がゲッティンゲンの学生寮で暮らしていた頃、ロシアの飛び地カリーニングラード(ドイツ名はケーニヒスベルク)からやって来たロシア人の留学生がブリヌィを大量に焼いてご馳走してくれたのです。アレックスとサーシャという優しそうな顔をした男子の留学生で、二人ともアレクサンドルというのが正式な名前。二人はケフィアを混ぜた生地をフライパンで薄く焼き、100枚ものブリヌィを作ったのでした。それをサワークリームクリームチーズヌテラを塗って巻いたり畳んだりして食べました。

ウクライナもロシアもソ連の構成国だったのだから、名前がちがっても同じような食べ物があるのは何の不思議もありません。

2023年にウクライナの人たちが作ってくれたムリンツィを食べて、20年以上も前にブリヌィを焼いてくれたロシア人の若者を思い出しました。あの二人のロシア人は今どこで何をしているだろうか、ウクライナの戦場で命を落としてはいないだろうか、と気になりました。ロシアの老人たちが引き起こした戦争でウクライナやロシアの多くの人たちが命を落としているのが本当に愚かしくてなりません。

クリスマスにゲッティンゲンでライネ川が氾濫

www.goettinger-tageblatt.de

ドイツのど真ん中ゲッティンゲン周辺ではこのクリスマスの時期にライネ川が氾濫しているとのことです。

アイヒスフェルトのドゥーダーシュタットに住む友人も先週雨降りの天気が続いた上にハリケーンか台風のような嵐に見舞われたとメールを書いてきました。それがこのような事態になっているとは……。


www.youtube.com

YouTube にはライネ川が氾濫している動画がありました。クリスマスイヴの日に撮影されたものです。私がかつてゲッティンゲンに住んでいた頃にこのような危機的な光景を目にしたことがありません。

また、ゲッティンゲン近郊のクライン・シュネーン(Klein Schneen)という村では地域の池の水が溢れ出しているとのことです。ドイツのど真ん中は重苦しいクリスマスになってしまい、とても心配です。

ヘレーネ・フィッシャー・ショーが4年ぶりに復活

www.zdf.de

12月25日の夜、ドイツのZDF(第2ドイツテレビ)で『ディー・ヘレーネ・フィッシャー・ショー(Die Helene Fischer Show)』が放送されました。

2011年から毎年クリスマスの夜にドイツ語圏で放送されてきた『ディー・ヘレーネ・フィッシャー・ショー』はコロナ禍とヘレーネの妊娠出産で過去3年間中断していましたが、今年4年ぶりに復活しました。


www.youtube.com

以前このブログで紹介した女性ラッパーとの『 Atemlos durch die Nacht(アーテムロス・ドゥルヒ・ディー・ナハト)』も改めて披露されました。

3時間に及ぶライブの動画を全編がZDFのサイトで来年2024年1月23日まで試聴することができます(上部のバナーをクリックすると別ウィンドウが開きます)。

たくさんのゲストを招き、ドイツ音楽シーンの大物ネーナ(NENAペーター・マッファイとも共演。圧巻のパフォーマンスは必見です。

コロナ禍明けの今年の冬もエミール・ライマンのシュトレンを

www.tbs.co.jp

昨夜、TBSマツコの知らない世界「日本シュトレン」が特集されていました。しかし番組で紹介されたシュトレンにはヨモギや和栗が入っていて、「それはもうシュトレンじゃないでしょう!」と私はテレビに向かって叫んでしまいました。

独創的な「日本シュトレン」を否定する気はありませんが、それは「クラフトシュトレン」とでも呼ぶべきものだと思います。私はやはりオードソックスなドイツのシュトレンが食べたいのです。

ドイツ、ドレスデンのシュトレンをコーヒーで。映えない地味な断面ですが、素朴で豊かな味。

昨日、番組に先駆けて、おやつに今年はじめてのシュトレンを切り出して食べました。ほぼ1年ぶりのシュトレンはバターがたっぷりの納得の味でした。サラサラの粉砂糖も心地よい舌触りです。

今年もエミール・ライマンのシュトレンを取り寄せた

エミール・ライマンのシュトレンは今年で5年連続で取り寄せ、2018年にはクリスマスの前にドイツを訪れ、お土産に買って帰りました。その前年にはゲッティンゲンでお世話になっているお宅の奥様がドクター・エトカー社のシュトレンを送ってくれました。ドレスデンのシュトレンが我が家のクリスマス前の時期には欠かせないものになっています。

「日本シュトレン」は日本人の創意と工夫が施されていて素晴らしいのでしょうが、一度ドイツの基本の素朴なシュトレンを食べてみるのもいいのではないでしょうか。それは日本人の職人さんの握るちゃんとしたお寿司が美味しいのと同じだと思うからです。それに「日本シュトレン」もけっこうなお値段がしますので、ドイツのシュトレンを取り寄せた方がお得かもしれません。

そしてシュトレンはシュトーレンではなく、「シュトレン」です。ドイツ語のスペルは Stollen で、母音の o の後に ll と子音が二つあるので、短い母音になります。だから「シュトレン」なのです。

Sayanara ドイツの沖縄ご当地ソングを再び

youtu.be

今から6年前、このブログをはじめたばかりの頃に Die Flipper (ディー・フリッパース)というバンドの 『Sayonara (サヨナラ)』という歌を紹介しましたが、今回たまたまYoutubeに別バージョンの動画を発見したので、改めて紹介します。

この曲はドイツ語で歌われる沖縄を舞台にした歌です。しかし温かい沖縄にはおよそ似つかわしくない寒々しい真冬の野外スケートリンクでのライブ映像です。

日本にドイツ好きの人は多くとも、このディー・フリッパースの『Sayonara』という歌を知っている人が全くいないのです。少なくともこれまで『Sayonara』を知っているドイツ好きの日本人に私は出会ったことがありません。またインターネット上で言及している方もいないのです(今から約30年前の歌なので仕方ありませんが……)。

ドイツ人が歌う変わった沖縄ご当地ソングを話のネタにでもしていただければ幸いです。