だいぶ間が空いてしまいましたが、前回のブログで私が住んでいた学生寮にロシアのカリーニングラードからやって来た留学生のことを書きました。それからカリーニングラードや私の住んでいた学生寮について少し調べていました。
3年目に突入したロシアのウクライナ侵攻では、バルト海に面した、ロシア本国からポツンと切り離された飛び地のカリーニングラード州という地域があることを知った人もいることでしょう。そのカリーニングラード州ですが、かつては東プロイセン(Ostpreußen: オストプロイセン)と呼ばれるドイツの一地域でした。州都カリーニングラードもドイツ語のケーニヒスベルク(Königsberg)という名前で呼ばれていました。
ケーニヒスベルクには1544年に創設されたケーニヒスベルク大学(ドイツ語で Arbertus-Üniversität Königsberg ケーニヒスベルク・アルベルトゥス大学)があり、哲学者のカントを輩出しました。
第2次世界大戦ではケーニヒスベルクも戦場となり、1945年にはとうとうナチスドイツが戦争に敗れ、ケーニヒスベルクはソ連の領土(東プロイセンはポーランドとソ連に分割)になり、そこに住むドイツ人はドイツ本国へと追放されたのです。
歴史あるケーニヒスベルク大学も閉校となり、ソ連のカリーニングラード国立大学になりました。ケーニヒスベルク大学のドイツ人の教授を受け入れたのがゲッティンゲン大学でした。ケーニヒスべルクを後にした教授たちは、ひょっとしたらゲッティンゲン近くのフリートラント(Friedland)の駅に辿り着いたのかもしれませんね。
そしてケーニヒスベルクを追われた教授や学者たちのたっての願いにより、ケーニヒスベルク大学を記念して建てられたのが、私の住んでいたコレギウム・アルベルティーヌム(Collegium Albertinum)という学生寮だったのです。そのような経緯からカリーニングラードからの留学生を多く受け入れていたのでしょう。残念ながら学生寮は財政難や運営する団体の代表メンバーが高齢化し、3年前に閉鎖されてしまいました。
因みに、閉校されたケーニヒスベルク大学にできたソ連のカリーニングラード国立大学は2005年にイマヌエル・カント記念ロシア記念ロシア国立大学(2011年にはイマヌエル・カント記念連邦大学)と名称が変更されました。その発表を行ったのが、プーチン大統領とドイツのゲアハルト・シュレーダー元首相でした。そのシュレーダーはゲッティンゲン大学の卒業生です。そして彼がロシアとズブズブの関係であることは誰もが知る事実。このような因縁がゲッティンゲンとカリーニングラードにあるのか……と複雑な思いになります。
いずれにしろ、ゲッティンゲンとカリーニングラードのことをもう少し深掘りしてみたいと思っています。