ドイツのど真ん中!

ドイツのど真ん中、ゲッティンゲンやアイヒスフェルトを紹介しています。

ザルツデアヘルデンの古い製塩所とゲッティンゲンの天然塩

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古城巡り11で紹介した英雄城のあるザルツデアヘルデン(Salzderhelden)「英雄たちの塩」というとても変わった地名の土地です。ザルツデアヘルデンのザルツ(Salz)とは、英語の salt、つまり塩という意味で、かつてここで実際に塩が作られていました。

「ドイツのど真ん中」は文字通りドイツの内陸部にあって、北海やバルト海などの海からは遠く離れているので、当然海水から塩を作ることはできません。

しかし、ザルツデアヘルデンでは12世紀には塩分を含んだ泉が存在し、15の小さな製塩所があったそうです。ただし、ライネ川(Leine)がたびたび氾濫し、塩作りは中断せざるをえませんでした。

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そこで1757年に浸水被害の出ないザルツデアヘルデンの集落の西に新しく製塩所(Saline)が移設されました。上の画像、塔のある木造の建物はBohrturm II (第2掘削塔)といい、1882年に建てられたものです。深さ360メートルから塩分濃度26%の塩水を掘り出し、汲み上げていました。 

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 オレンジ色の瓦屋根と煉瓦造りの建物には掘り出した塩水の貯水槽がありました。

しかし、長い塩作りの歴史を持つザルツデアヘルデンの製塩所は残念ながら1963年に操業を停止してしまいました。その後アインベック市が製塩所の地所を取得し、建物の大部分は取り壊されて、第2掘削塔と塩水貯水槽の建物だけが残っています。現在はザルツデアヘルデンの地元の人たちが文化財として保存管理しています。前もって連絡をすれば、内部を見学することができます。第2掘削塔と貯水槽の建物がある場所には自由に立ち入ることができます。

50年以上も前に操業を止めたザルツデアヘルデンの塩を手に入れることはできませんが、なんとゲッティンゲンで製塩さえた塩を買うことができるのです。

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上の画像はゲッティンゲンにあるSaline Luisenhaller(ルイーゼンハラー製塩所)の天然塩です。毎年お世話になっているニコラウスベルクの奥様からお土産にいただいたきました。

長年ゲッティンゲンに住んだことがありながら市内に製塩所があることをずっと知りませんでした。ザルツデアヘルデンほどの歴史はありませんが、1854年に創業した製塩所です。450メートルの地下から2億5千万年前の海水を汲み上げて24時間かけて精製した塩です。食塩だけでなく、クナイプ社のバスソルトにもルイーゼンハラー製塩所の塩が使われています。

次回のドイツの旅では、ぜひゲッティンゲンのルイーゼンハラー製塩所も見学してみたいと思います。

ザルツデアヘルデンの古い製塩所はドイツのここにあります。英雄城と合わせて見学することをお勧めします。

ザルツデアヘルデンへの行き方はゲッティンゲンからハノーファー方面へのローカル列車(RB)に乗り、アインベック・ザルツデアヘルデン(Einbeck-Salzderhelden)で下車。
ザルツデアヘルデンはビールのふるさとアインベックの町の一部なので、合わせて観光するのもおすすめです。

そして、ゲッティンゲンのルイーゼンハラー製塩所のホームページはこちらです。

ベルリンの壁崩壊30年 余録

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ベルリンの壁崩壊から30年周年を迎えました。

ふとベルリンの壁のかけらを持っているのを思い出し、撮影してアップしました。

本物のベルリンの壁のかけらかは不明ですが、壁崩壊から間もない1990年か1991年に西ベルリンで買ったものです。当時3マルクか4マルク、300円しない値段でベルリン土産として売られていました。観光客向けのまがい物かもしれません。しかし、コンクリート片にしっかりと厚く塗られた塗料の具合から一応本物だろうと信じて捨てたりせずに持ち続けてきました。

2011年3月11日の東日本大震災で私の家は津波に襲われましたが、2階の私の部屋は浸水を免れ、このベルリンの壁も流されず、今だにこの本物かも疑わしいベルリンの壁のかけらを持ち続けています。私がドイツと関わりを続けて、早いもので30年です。

 

ベルリンの壁崩壊から30年

今からちょうど30年前、1989年11月9日にベルリンの壁が崩壊しました。若かった私は熱い思いでその模様をブラウン管のテレビで見ていたものです。時代の歯車がダイナミックに動く、まさにパラダイムを見せつけられたようでした。

その翌年、東西のドイツは再統一しました。そして雪崩を打つように共産主義の東欧諸国で政変や革命が起こり、とうとうソ連まで崩壊しました。

当時がいかに激動の時代であったのかを現在の20代やティーンエージャーに話してみても、きっと理解はしてもらえないことでしょうね。

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さて、今年の6月に私はドイツのど真ん中を訪れました。ドイツのど真ん中とは言いますが、冷戦時代の頃は実は東西両ドイツそれぞれの辺境であったわけです。2つのドイツが統一されてドイツのど真ん中になったということですね。

旅の拠点であるゲッティンゲンの町から車で東に35kmも行けば、かつての東西ドイツの国境だった地点にたどり着きます。

今年の旅でも旧両ドイツ国境を何度もまたいで来ました。上の画像はたびたび紹介しているかつての国境の町だったニーダーザクセン州ドゥーダーシュタット(Duderstadt)から東に向かい、テューリンゲン州エックリンゲローデ(Ecklingerode)にあった旧国境で、現在は2つの州の州境です。この辺りはアイヒスフェルト(Eichsfeld)と呼ばれる地域で、東西ドイツにまたがる地域でした。

白地に茶色に標識がかつての東西ドイツの国境だったことを示しています。ヨーロッパが分断されているのが描かれていますね。

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ここでドイツと

ヨーロッパは1989年11月18日

午前6時まで分断されていた

と標識には書かれています。

ベルリンの壁崩壊の11月9日ですが、この道路は主要な幹線道路ではないので、11月18日にようやく国境が解放されたのでしょうね。

以前紹介したアイヒスフェルト国境地帯博物館付近の旧国境は11月10日の午前0時35分に解放され、またゲッティンゲン近郊のフォーゲルザンク(Vogelsang)にあった国境は11月9日午前10時15分に撤廃されました。

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30年後の今年の初夏、かつて固く閉ざされていた東西ドイツの国境だった場所の自転車で颯爽と駆け抜けていく人たちがいました。もちろん監視やチェックもなく行き来することができます。

最近、東ドイツでは極右政党のAfD(ドイツのための選択肢)が台頭してきて、何かと不穏な動きもあるようです。ベルリンの壁崩壊から30年、平和なドイツであることを願うばかりなのですが。

今回紹介した旧東西ドイツの国境はここにあります。

     

 

ドイツで肉を食らう 2019 ミュンヘン編 2 ヴァイスヴルスト

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2019年ドイツの旅の最終日、帰国の日の朝、ドイツ南部の大都市ミュンヘンに住むドイツ人の友だちが朝食にミュンヘン名物のヴァイスヴルスト(Weißwurst)を茹でてくれました。嬉しいことに庭での朝食となりました。

ヴァイスヴルストは上の画像のように白いソーセージ。ヴァイス(weiß) が白い、ヴルスト(Wurst)がソーセージという意味の文字通り白ソーセージなのです。この白い色は発色剤・防腐剤である亜硝酸塩が使用されていないからです。

ヴァイスヴルストはドイツ全土のスーパーマーケットで購入できる大量生産品もあり、いつでも食べられるような気もしますが、本場ミュンヘンでは午前中のうちに食べるのが習わしだそうです。というのも、冷蔵技術のなかった時代、ヴァイスヴルストは傷みやすく12時の鐘を聞いてはならないと言われていました。

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ヴァイスヴルストに合わせるのが、結び目の形に焼かれたブレーツェル(Brezel)。この形はドイツのパン屋さんの看板によく描かれていますね。

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ヴァイスヴルストは皮(ケーシング)をナイフで切り開いて中身の肉だけを食べ、皮は食べません。あるいは、端を切り、吸うようにして食べる方法もあるそうです。私も昔は知らずに皮まで食べてしまっていましたが、ある時隣の席にいたドイツ人に皮は食べないんだよとたしなめれ、それ以降その流儀に従って食べるようになりました。

中身の肉には、甘いカラシを付けて食べますね。日本人には甘いカラシというのは変な感じがしますが、ヴァイスヴルストには甘いマスタードが決まりのようです。細かく惹かれたお肉が実に滑らかな食感で甘いマスタードもよく合います。甘みそのような感じですね。

ブレーツェルは香ばしく、表面についた岩塩がピリッと良いアクセントです。本来ならば、南ドイツのヴァイスビア(小麦のビール)も合わせて飲むのですが、食後に散歩をするので、コーヒーとオレンジジュースにしました。

ドイツで肉を食らう 2019 ミュンヘン編 1 シュヴァイネブラーテン

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 今年、2019年のドイツの旅で、ドイツのグルメを締めくくったのはミュンヘンです。今年の旅では、フランクフルトからではなく、ミュンヘン空港から帰国となりました。

帰国前夜はミュンヘンに暮らすドイツ人の友だち夫妻の家に厄介になり、夕食は南ドイツ、バイエルン料理の美味しいお店に連れて行ってもらいました。観光客向けではなく、ミュンヘンの地元の人たちの行くレストランです。そこで注文したのが、シュヴァイネブラーテン(Schweinebraten)というローストポークの料理でした。シュヴァイン(Schwein)が豚、ブラーテン(braten)がローストという意味です。

付け合わせには、ジャガイモと、ゼンメル(Semmel)というパンの団子、クヌーデル(Knödel)がそれぞれ一つずつ。

画像には写っていませんが、サラダもついていました。

シュヴァイネブラーテンとクヌーデルには、ドゥンケル(Dunkel)と呼ばれる濃い色のビールのソースに浸っています。このソースもほんのりとビールの味がします。

大きく厚めの豚肉も適度な弾力を保ちながらも柔らかくて、とても美味しく、2枚もあるので、肉食ったなぁ!という満足感があります。クヌーデルはもちもちの食感で、ビールのソースとの相性もとても良かったです。

ドイツの旅、最後のディナーは極上のバイエルン料理でした。もちろん満腹でした。ドいつ料理は、フランス料理やイタリア料理に比べて華がありませんが、ちゃんと美味しい料理もあるのだと再認識しました。

またミュンヘンを訪れて食べたい一皿です。

ドイツのど真ん中で古城巡り 17 エーリヒスブルク城

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今回ご紹介するエーリヒスブルク城(Schloss Erichsburg)は、紙のドイツの道路地図を眺めているうちに見つけた古城です。インターネットでエーリヒスブルク城を検索してみると、城のホームページも発見し、今年2019年のドイツの旅で実際に城を訪ねてみました。

エーリヒスブルク城があるのは、ビールの町アインベック(Einbeck)の西10kmほどのダッセル(Dassel)という町の郊外にあります。ご覧のように優美な塔を持つ、風格の感じられる古城です。以前紹介したヘルツベルク城(Schloss Herzburg)ザルツデアヘルデン城(Burg Salzderhelden)ヴェルフ家(Haus Welfen)の分家ブラウンシュヴァイクリューネブルク家(Haus Brauschweig-Lüneburg)の城です。

もともとエーリヒスブルク城の近くにあったダッセル伯爵のフンネスリュック城を1521年にブラウンシュヴァイクリューネブルク家のカレンブルク侯爵エーリヒ1世が攻略しました。破壊されたフンネスリュック城は修復されることなく、1527年から1530年に堀で囲んだエーリヒスブルク城を建設させました。城の名前はエーリヒ1世からではなく、1528年に生まれた息子エーリヒ(のちのエーリヒ2世)から付けられました。

エーリヒ2世の死後、城は甥のブラウンシュヴァイク=ヴォルフェンビュッテル侯爵家のユリウスに渡り、1602年から1612年にかけて拡張されます。

近代に入ってからエーリヒスブルク城は教会の施設としても使われていましたが、現在は個人の所有となっています。その所有者が城のホームページを開設しており、城の敷地内にある屋敷を宿泊施設にしたり、パーティーセミナーの会場として貸し出すなどのビジネスを行っています。

私はレストランやカフェなども営業しているものだと勝手に思い込み、エーリヒスブルク城に出かけてみましたが、飲食施設はなく、門が閉まっていました。私の他にもサイクリングで城を訪れたカップルがいたのですが、全員写真だけ撮って門前払いとなってしまいました。城は常時営業しているわけではなく、事前に申し込んで宿泊できたり、パーティー会場として借りることができるようです。また、城そのものも修復中のようでしたし、関係者が庭の芝刈りをしていました。いつか城内に入ってみたいものです。

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エーリヒスブルク城には入れなかったので、ダッセルの町に立ち寄ってみました。平日の昼間でひっそりと静まり返り、わずかに自転車で走る女の子たちがいました。典型的なドイツの片田舎です。

エーリヒスブルク城はドイツのここにあります。

 エーリヒスブルク城のホームページはこちらをご覧ください。

メルヘン街道のゲッティンゲン

ドイツにはロマンティック街道をはじめとしていくつもの街道があります。

先日は日本人にはあまり知られていないドイツ木組みの家街道(Deutsche Fachwerk Straße)を紹介しましたが、ドイツのど真ん中にあるゲッティンゲン(Göttingen)にはドイツメルヘン街道(Deutsche Märchen Straße)が通っているのです。

2016年から毎年のようにゲッティンゲンやドイツのど真ん中を訪れるようになり、たびたび田舎道にメルヘン街道を示す標識を見つけてきましたが、今年初夏の旅ではゲッティンゲンにもその標識があるのを発見したので、撮影してきました。

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メルヘン街道を示す標識ですが、ゲッティンゲンの中心部である、旧市街では見かけませんが、旧市街の外、連邦道27号線にありました。まさに街道にあったわけです。

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メルヘン街道の標識があるのは「プラッツ・デア・ゲッティンガー・ズィーベン(Platz der Göttinger Sieben)」のバス停でした。茶色い標識に「ドイツメルヘン街道(Deutsche Märchen Straße)」と表記されていますね。このプラッツ・デア・ゲッティンガー・ズィーベンとは、ゲッティンゲン七教授の広場という意味で、道路を挟んだ向い側にあるゲッティンゲン大学のキャンパスのことです。1833年ハノーファー国王に異議を唱えてゲッティンゲン大学を免職になった「ゲッティンゲン七教授事件」には、メルヘンを蒐集したグリム兄弟も名を連ねていますね。